一体思想の影響を強く受けるようになる。特に顔之推の『顔氏家訓』が知識階層に与えた影響は大きかった。吉備真備は『顔氏家訓』に範を取って家訓書『私教類聚』を著し、儒教・仏教一体思想に基づいた教育を行う私学院、「二教院」を設立した。また、石上宅嗣は、「内外の両門、本一体」(仏教・儒教は本来同義である)という理解によって、邸宅を改めて阿寺と為し、その中に外典を備えた芸亭を設置した。
 儒教・仏教一体とする理解は、知識階層に止まるものではなかった。『続日本紀』淳仁天皇天平宝字三年〈759〉六月丙辰(二十二日)条には、官人の規律の乱れを正すため、官人としてふさわしい人格を備え、維城典訓・律令格式を読んでいる者を推挙することを求めた勅が載せられている。その勅の中で、官人としてふさわしい人格として、儒教の仁・義・礼・智・信の善を習い修め、仏教の貪・嗔・痴(三毒)および淫・盗(五戒の中の二項目)の悪を戒め慎む人物であることが求められている。また、仁とは不殺生および貧苦者への憐憫の情であり、義とは諸悪を断じて諸善を修することである(『法句経』「七仏通解偈」中の「一切悪莫作、当奉行其善」と同意)と説明されている。朝廷は、儒教・仏教に基づいた人格陶冶を官人に求め、さらに、その官人が民衆を教え導き、儒教・仏教に基づいた生活規範が民衆に浸透することを期待したのである。
 このように、儒教・仏教を一体と捉える理解は、仏教法会の場のみならず、政治や学問の場などを通じて、生活思想として、古代日本社会に浸透していったと考えられるのである。
 七、亡親追善供養法会と孝思想
 儒教の孝思想は、祖先祭祀を重視する宗教性を有するがゆえに、亡親追善供養法会の場において、仏教と融合しながら人々の生活思想の中に浸透していったが、古代日本人が、宗教的な孝思想を受容した背景には、古代日本において、早くから祖霊観念が発達し、祖先神を祭祀する風習があったことと関わっていると思われる。
 古代日本における祖霊観念は、古墳において行われたと考えられている墓前祭にみることができる。古墳時代中期ころ発生したと考えられる祖先神の観念は、六世紀後半以降七世紀にかけて、氏神=霊異神の観念の中に取り入れられた。氏神の観念は、伝来した仏教と融合して氏寺の造営へと展開する。飛鳥時代から奈良時代に至る仏教信仰の主流は「祖霊追善」であったと考えられている(注19)。孝思想が有する宗教性としての祖先祭祀の重視は、このような氏神信仰から仏教による祖霊追善の流れに中に違和感なく融合していったものと思われる。
 朝廷においては、持統天皇以降、追善の仏教儀礼が定着し、代々の天皇による亡親追善供養法会が盛んに行われるようになった。九世紀初頭には、親王以下地下人階層に及ぶまで、亡親追善供養法会が広く行われるようになっていた。追善供養法会は「追孝」(亡くなった父祖の霊によく仕える、死後の孝を云う語)と称され、葬礼を手厚く営むことが孝子として讚えられた。人びとは孝子の名を競って分限を超えた供養法会を営み、そのため邸宅や田畑を売り払い生活を破滅させる者まで出る始末で、朝廷もこのような状況を捨て置くことができず、ついに、朝廷が身分に応じた布施の額を定める事態にまで至っていたのである(『日本後紀』大同元年〈806〉六月辛亥(十九)日
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