条)。 『日本後紀』のこの記事からは、あらゆる階層において追善供養法会が行われていたことが知られるが、その法会において、仏教者が、法会の主催者に対して、どのような唱導を行っていたのか、その実態を具体的に教えてくれるのが、天長年間頃(824〜834)に成ったと考えられている『東大寺諷誦文稿』である(注20)。 『東大寺諷誦文稿』は、葬送儀礼あるいは追善供養法会において読み上げられた表白、願文を作成するための規範文例、あるいは教化の説法に用いられたと思われる文言を書きとどめた、法会の唱導全般にわたる手控えと考えられている。表白、願文あるいは説法の最も聴かせどころとなる部分のみを、覚書風に抄出し連ねたものとなっているため、首尾整った完成形のものは無いが、それでも当時の追善供養法会における唱導の実態を充分に窺うことができる貴重な資料である(注21)。 亡親追善供養法会において用いられたと思われる表白の断片から総合的に判断すると、表白では、まず親の恩が強調され、親への報恩の例として、経典・漢籍から孝子説話が引用され、亡親追善供養法会を営む施主の行為が孝子に匹敵する孝であるとして讚えられている。法会を営む施主の善根が冥界の親に廻施され、亡き親の後世の助けとなると説かれていたことがうかがわれる。表白に引用される孝子説話は、施主の孝を讚えるところから、施主や法会に参集した聴衆に対して、一つの聴かせどころであったと思われる。そのため、追善供養法会の唱導のために、寺院には孝子伝が備えられ、僧侶は、孝子伝から自在に説話を引用しながら表白を作成していたと思われる。また、施主を讚える説法の際には、孝子説話の内容を語ることも行われたのではないかと想像される。収載されている表白の中には、経典から、須闡太子・忍辱太子など、我が身を犠牲に |
して親の命を救った説話が引用され、また孝子伝などの漢籍から、丁蘭・重尺・曹娥・宏提・董永・重華・畢![]() 亡親追善供養法会の表白において、施主を孝子として讚歎することは、平安時代以降の表白、例えば空海作の表白にもみられ(『続遍照発揮性霊集補闕抄』巻八「孝子先妣周忌の為に両部の曼荼羅大日経を図写し供養し講説する表白文」、同「忠延師が先妣の為に理趣経を講ずる表白文」)、いわば定型化していったものと思われるのである。 まとめ 以上、安居院を中心とする中世の唱導資料における表白・願文を検討することを通して、中世日本人の信仰と思想について考察した。亡親追善供養法会における表白・願文の内容・表現には、儒教経典の章句ならびに孝子伝からの要約説話が多く織り込まれていた。このことから、亡親追善供養法会の思想基盤には、儒教の孝思想が存在していたことが確認できた。ところが、従来の日本思想研究においては、津田左右吉氏の論を始めとして、儒教は日本思想にほとんど影響を及ぼさなかったとされてきた。そこで、古代から中世日本において儒教はどのように受容されてきたのか、再検証を行った。まず、儒教とは何かを加地伸行氏の論に拠って確認すると、儒教は本来祖先祭祀と密接に関わる宗教性と、道徳倫理の両方を具有し、その宗方を繋ぐものが孝思想であった。津田氏を始めとして、儒教が日本思想に殆ど |
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