儒教が倫理道徳の教えであることを前提とした津田氏の論は、その後の日本における儒教観を方向付けたと云ってよいだろう。そのため、儒教の礼教性の面からのみ、古代日本への儒教の影響が考察されることとなり、結果的に、儒教は古代日本にほとんど影響を及ぼさなかったとする見解が定着してしまったように思われる。
 しかし、加地伸行氏が明らかにした、儒教の宗教性という視点に立ちながら、儒教の古代日本への影響を考えた場合はいかがであろうか。儒教の礼教性が影響を及ぼさなかったとする従来の見解とはまた異なった状況が見えてくるのではないだろうか(注14)

 六、 古代日本社会における儒教の孝思想と仏教との融合
 儒教の宗教性という視点に拠って、『日本書紀』に記される、神武・綏靖天皇が祖先祭祀あるいは葬送儀礼を、敬を尽くして手厚く行った思想的背景を考えるならば、両天皇の行為は儒教の「孝」の実践にほかならなかったことになろう。古代日本の天皇が、親の死に際しては悲哀を極め、葬送および祖先祭祀を手厚く行ったことにも、儒教の宗教性が影響を及ぼしていたことが考えられるであろう。ただし、古代日本において、祖先祭祀は、儒教儀礼によって行われてはいなかったようである(注15)。朝廷においては、持統天皇以降、七七日や忌日における追善の仏教儀礼が定着したと考えられているように(注16)、祖先祭祀儀礼を担ったのは仏教者であった。儒教の孝思想は、祖先祭祀という宗教性を有するがゆえに、仏教の追善供養儀礼と融合していったと考えられるのである。
 『続日本紀』には、服喪の期間が過ぎても朝廷行事を停止した天皇の記事が記されているが
(孝謙天皇天平宝字二年〈758〉三月辛巳〈十日〉条、桓武天皇延暦元年〈782〉十二月壬申〈二十四日〉条)、その際に発せられた詔の文章は、孝思想に彩られている。また、天皇による亡親追善供養法会に際して発せられた詔の表現から、亡親追善供養法会は、儒教の孝思想(宗教的な意味における)に基づく営みであったことをうかがうことができる(『続日本紀』元正天皇養老六年〈722〉十一月丙戌〈十九日〉条、『続日本紀』桓武天皇天応元年〈781〉十二月辛亥〈二十七日〉条)。天皇によって儒教の孝思想に基づく亡親追善供養が営まれたことは、臣下にもその精神が浸透していくことになったことが推測される(注17)
 儒教の孝思想は、亡親追善供養の精神的基盤となっていったが、孝思想が仏教儀礼である追善供養法会の精神的基盤として受容されたことには、八世紀日本の知識階層に広まっていた、儒教と仏教の本源は一体であるとする儒教・仏教一体思想の影響も見逃すことができない。特に、孝謙天皇による、父聖武天皇一周忌追善法要に際しての『梵網経』講説の法会は、八世紀日本における儒教仏教一体思想の定着に大きく関与したと考えられる。
 孝謙天皇は、天平宝字元年〈757〉五月二日の父聖武天皇一周忌に合わせて、四月十五日から五月二日まで、全国六十二国において『梵網経』を講説させるため、天平勝宝八年〈756〉十二月三十日、東大寺・大安寺・外嶋坊・薬師寺・元興寺・興福寺に皇太子・大臣等を遣わし、『梵網経』の講師六十二人を請い求めた『続日本紀』天平勝宝八年十二月三十日条)。この時に発せられた詔によると、『梵網経』を講説させるのは、『梵網経』には菩薩戒が説かれ、また、『梵網経』の
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