五、 儒教の孝思想
 そもそも、儒教の孝思想とは、いかなる思想であろうか。『論語』において説かれる最も重要な徳目が「仁」であることは改めて言う必要もないであろう。その「仁」について、『論語』は、「孝悌なるものは、それ仁の本為るか」(学而篇)と、孝と悌とは、ともに仁の根本であると説く。また、『孝経』には、「夫れ孝は徳の本なり」(開宗明義章)と説かれ、孝はあらゆる道徳の根本をなすものであるとされている。このように、孝は儒教の根幹を為す思想なのである。
 孝の具体的内容については、『孝経』「紀孝行章」に、「孝子の親に事ふるや、居には則ち其の敬を致し、養には則ち其の楽を致し、疾には則ち其の憂を至し、喪には則ち其の哀を致し、祭には則ち其の厳を致す」と説かれ、また、『礼記』「祭統篇」には、「孝子の親に事ふるや、三道あり、生くれば則ち養ひ、没すれば則ち喪し、喪畢れば則ち祭る。養ふには則ち其の順を観る、喪するには則ち其の哀を観る、祭るには則ち其の敬ひて時あるを観る、此の三道を盡す者は孝子の行なり」と説かれるように、生前の孝養、葬送儀礼、死後の祭祀、すべてを含めて「孝」というのである。死後の祭祀とは、『礼記』「祭統篇」に、「祭は養を追ひ孝を継ぐ所以なり」と説かれるように、生前の孝養の連続に他ならないのである。
 儒教の根本思想である「孝」が、祖先祭祀を重視するところから、儒教の宗教性について、「孝」の観点から解き明かしているのが加地伸行氏である。氏によれば、儒教は、古代中国人の、この世への招魂再生を願う死生観と密接に関わっているという。自己の生命は祖先の生命の連続であり、自己の〈生命〉は子孫に伝達されることによって
永遠性を獲得する、という死生観に基づき、子孫による招魂再生儀礼(祖先祭祀)によって、死後の魂は現世への回帰が可能になるのである。過去の存在である祖先と未来の存在である子孫との中間に現実の親子が存在するが、これは未来の祖先・子孫関係が託されたものである。「そこで儒教は、(一)祖先祭祀をすること、(二)現実の家庭において子が親を愛し、かつ敬愛すること、(三)子孫が続くこと、この三者を併せて〈孝〉と表現したのである」。このように、「孝」は、「祖先祭祀」と「生命の連続」という宗教性に基づいて、現実の家族における道徳となり、この家族道徳に基づいてより広い社会道徳の道徳(礼)へと展開し、政治システム、さらには世界観にまで関わっていくのである(注13)
 加地伸行氏が述べる儒教の宗教性に基づきながら、『日本書紀』の神武・綏靖天皇の記事をみていくと、初代・二代の天皇が、祖先祭祀を手厚く行うという「孝」を実践する天皇として造型されていた理由が納得できる。つまり、『日本書紀』においては、古代中国の儒教的君主観、すなわち宗教性と礼教性との両面から讚えられる聖天子像に基づいて天皇の造型が図られていたのである。このことは、古代日本における儒教理解が、宗教性と礼教性との両面において理解されていたこと、就中、「祖先祭祀」「生命の連続」という宗教性が強く意識されていたことを物語っている。
 津田右左吉氏は、儒教が日本思想に影響を及ぼさなかったことを論じる際に、儒教を「儒家の道徳教」と表現していることから知られるように、氏は儒教を道徳と捉え、その礼教性のみに注目して、日本思想への影響を考察していたのである。
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