政治の指導的理念になり、しかも儒学の道徳規範―例えば「孝」など―は程度に違いこそあれ、日本社会の各階層に浸透したが、全体からみれば、日本の早期儒学の影響はおおむね日本文化の表層に及んだに過ぎなかった」として、儒教は日本民族文化の深層には根付かなかったと論じている(注11)
 このように、思想史・歴史研究においては、近年に至っても、儒教の孝思想が日本思想に与えた影響については否定的にみられているのである。

 四、 古代日本における孝思想の理解
 日本に儒教が伝えられたのは、応神天皇の時代に、応神天皇から百済国に対し賢人を献上するように要請し、百済から「和邇吉師」とともに、『論語』『千字文』が献上されたことによるとされている(『古事記』応神天皇条)。その後、継体・欽明天皇の時代には、五経博士が百済から交代派遣されたという(『日本書紀』継体天皇七年条、欽明天皇十五年条)。これらの記事を信じれば、儒教は、仏教伝来以前に、古代宮廷の知識人に享受され学ばれていたと考えられ、宮廷知識人の思想形成に大きく関わっていたものと推測される。
 壬申の乱以降、天武天皇による律令国家体制の建設にともない、儒教は国家政策の理念とされていった。官吏養成機関であった大学における教育が、儒教を中心としたものであったことは、政治、すなわち律令の実際の運用と儒教がいかに不可分のものであったかをうかがわせる。儒教が官吏教育の基本とされたことによって、統治者には、儒教による理想的君主像が求められていくことになった。そのため、『日本書紀』に記される天皇像には、儒教的君主観によって造型された天皇像を多くみることができる。代表的な例は、民の竈に煙が
立たないことを見て課役を留めた仁徳天皇であるが、『日本書紀』は、いわゆる王朝交替説における、王朝交替期に登場した天皇については、ことさらに儒教的聖天子であったことを強調する傾向がある。
 それでは、初代天皇である神武天皇には、儒教的聖天子として、どのような造型がなされているのであろうか。東征によって国家を平定した神武天皇は、橿原宮を造営して即位し、大和に確固たる政権を築いた後、神武天皇四年二月、皇祖の霊を祭祀し、祖先の霊に「大孝」を述べたと記されている。「大孝」とは『礼記』によれば、親に孝行を尽くすのみならず、博く仁を実践することであり、特に敬愛を致して祖先祭祀を行うことをいう。つまり、神武天皇は、祖先祭祀を手厚く行い、祖先への孝を実践したことにおいて儒教的聖天子として造型されていたとみることができる。また、二代綏靖天皇は、「孝性」が深く、神武天皇崩御後「悲慕」の念已みがたく、特に手厚く葬送を行ったことが記されている。
 このように、初代・二代の天皇像の造型に、ことさら「孝」の性格付けがなされていることは注目すべきである。『日本書紀』編纂者にとって、天皇の条件として「孝」を具有することが、いかに重要であると考えていたかをうかがうことができるからである。そして、さらに注意すべきことは、そこに描かれる「孝」とは、いずれも祖先祭祀に関わるものであったということである。このことは、八世紀の日本において、「孝」は道徳倫理のみならず、むしろ、祖先祭祀という宗教的意味合いにおいて理解されていたことを物語っている(注12)
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