ことが無かつたのである」として、儒教は、古代中国の家族制度や社会組織や政治形態を基盤として形成され、古代中国の社会制度や生活を維持するために説かれた教えであることを理由に、「全く家族制度を異にし社会組織を異にし政治形態を異にし、要するに生活を異にしてゐた我が国民の間に行はれたはずが無いのである」と論じたのである。
 津田氏のこの論については、尾藤正英氏が、「やや極端な断定的な表現ではあるが」、「ほぼ歴史上における儒教受容の実態を正確に表現したものであるように思われる」(注7)として、ほぼ全面的に賛同の意を表明し、井上光貞氏も、同趣旨の論が述べられている津田氏『支那思想と日本』(岩波書店、一九三八年)を取り上げて、これらの論文が執筆された当時の日本の時代思潮、すなわち、「儒教や仏教の共有性を通じてアジアは一つである」として、アジアの盟主日本を謳い、大陸侵略を正当化するという日本主義が日本を覆っていたことへの津田氏の憤りに加え、民衆の生活思想を関心の対象としていた津田史学には、生活思想における儒教や仏教の影響を否定する姿勢が強かった、という津田氏個人の研究姿勢に基づくところの主張の行き過ぎはあるものの、それにもかかわらず「名著として」「高い価値をもつのは」、「充分な学問的手続きを以て主張」された論であるからであると高く評価した(注8)。このような、思想史・歴史研究における評価・支持により、儒教は日本思想に影響を及ぼさなかったとする津田氏説が通説化していくこととなった。儒教が日本思想に影響を及ぼさなかったことが、日本思想史研究における通説となった以上、儒教の根本思想である孝思想が、日本の思想に影響を及ぼさなかったと考えられたことは、また当然の理であった。
 古代日本における孝思想については、坂本太郎氏が、日本の律令と唐の律令とを比較して、「令には積極的に孝を奨励した条文」が多いことを指摘し、孝道奨励の実践例として、六国史から、孝子・順孫・義夫・節婦の表彰が行われた事例を挙げている。しかし、氏は、孝道奨励の政策は一般民衆にそれほど効力は及ぼさず、『万葉集』や記紀にみえる親子間の愛情は、「中国の孝の思想とは無縁の、日本固有の心情であると見てよいであろう」と、思想としての孝の問題を「日本固有の心情」に帰着させ、儒教思想は知識人の観念の世界に留まるものであったと結論するのである(注9)
 同じく歴史学の立場から、武田佐知子氏は、律令における孝道奨励について、国史にみえる孝子・順孫・義夫・節婦彰表の調査・分析を通して、孝は、奈良時代においては、日本の民衆の心に根付くには至らなかったと結論し、その理由として、日本における家族形態が古代中国の家族形態とは乖離していたことをあげている(注10)
 また、日中比較文化の立場から、王家?氏は、古代日本の政治思想に影響を与えた儒教について考察している。氏は、儒教は古代天皇制中央集権政治の政治理念として導入されたが、藤原氏の台頭にともない天皇集権体制が崩れたことにより、儒教はその社会的需要や支えとなる政治力を失ったと述べる。そして、儒教道徳が古代日本社会に与えた影響について、孝思想を例として、『三教指帰』からは、孝思想が、奈良、平安時代の知識人たちに認められた道徳観念であったことをうかがうことができ、『日本霊異記』からは、孝を善、不孝を悪とする道徳観念が、ある程度一般庶民の中に浸透していたことをうかがうことができることを確認する。しかし、大学寮の衰退とともに儒教も衰退し、「儒学の政治理念が古代日本
 - 4 -
<<back    next>>