また、孝養の志には必ず冥界からの感応があるとして、その根拠となる文言を『孝経』「応感章」から引用し、その具体例として王祥・孟宗・元律・李広・翁子・燕丹の故事をあげる。さらに、親への報恩の孝行は、身に徳を加えることでもあるとして、虞舜、継体天皇、陽公、郭巨、陸績、薜苞の故事を語るのである。 この表白が、亡親追善供養法会表白の規範文例であることを踏まえて、亡親追善供養法会の趣旨を理解するならば、亡親追善供養法会とは、親の後世を祈り親への真の孝行を行うことであった。同時に、冥界の親から冥助の約束を得、子孫が現世での利益を得る行いであった。 また、表白が、施主の行為を讚えるため、孝子伝などの孝子説話を多用して文飾を施し、追善供養の功徳を説くための権威となる「本文」として『孝経』を引用することから、亡親追善供養の思想基盤に、儒教の孝思想が大きな影響を与えていたと考えることができる。 安居院を始めとする中世唱導資料をみていくと、亡親追善表白・願文の施主を讚える表現には、必ずといってよいほど、孝子説話が引かれている。『言泉集』『普通唱導集』「湛睿の唱導資料」等、中世唱導資料には、孝子伝や経典などから、多く孝子説話が抜き書きあるいは要約されて収載されているが、これは、亡親追善供養法会における表白・願文作成、および説法における手控えであったと考えられる。日本において、『孝子伝』が書写され、また、孝子説話を多く含む説話集『注好選』が寺院で編まれ、孝子説話のみを収めた 『孝行集』が編まれたことも(注6)、亡親追善供養法会における唱導に備えるためであったと考えられるのである。 また、『言泉集』「亡父/厳親秀句」帖(四帖之 |
二)に納める願文には、次のように、孝行を説く聖人として釈尊とともに孔子の名があげられている。このことからは、仏教儀礼である追善供養は、本来儒教の根本思想である孝思想を基盤とするものであると理解されていたことをうかがうことができる。以上のように、中世唱導資料からは、儒教が仏教と融合しつつも、儒教は儒教として明確に意識されてながら生活思想に浸透していた様相をうかがうことができる。日本においては、追善供養儀礼は奈良時代から仏教儀礼として行われていたことを考えると、中世唱導資料からうかがわれるような、中世日本人の信仰および思想の実態を理解するためには、まず、古代日本において、儒教の孝思想がどのように人びとに理解され、受容されていたのかを確認する必要がある。
貴族文学の時代』(東京洛陽堂、1916年。津田左右吉全集第四巻〈岩波書店、1964年〉所収)において、平安朝には、儒教は書物によって学ばれたものの、それは漢文や漢詩文を作る際の知識を得るために過ぎないのであって、現実の政治上に儒教の政治思想が影響を及ぼしたこともなく、また文学においても儒教思想は現れていないと述べている。氏は、『儒家の実践道徳』(岩波全書、1938年。津田左右吉全集第十八巻〈岩波書店、1966年〉所収))においても、「儒家の道徳教は、古往今来、曾て我が国民の道徳生活を支配した |
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