注4:

 「内閣文庫蔵『金玉要集』」(『磯馴帖村雨篇』、和泉書院、2002年)

注5:

納冨常天「湛睿の唱導資料について(一)〜(四)」(『鶴見大学紀要』第二九〜三二号「第四部人文・社会・自然科学篇」、1992年3月〜1995年3月)

注6:

黒田彰『中世説話の文学史的環境 続』(和泉書院、1995年)
注7:

尾藤正英「儒教」(中国文化叢書10『日本文化と中国』、大修館書店、1968年7月)

注8: 井上光貞「日本文化と日本史研究」(岩波講座日本歴史二四「別巻1」、岩波書店、1977年3月)
注9: 坂本太郎「飛鳥・奈良時代の倫理思想―とくに親子の間の倫理思想について―」(同氏著『古典と歴史』所収、吉川弘文館、1972年6月)   
注10:

武田佐知子「律令国家による儒教的家族道徳規範の導入―孝子・順孫・義夫・節婦の表旌について―」(竹内理三編『古代天皇制と社会構造』、校倉書房、1980年3月)

注11: 王家「古代日本の儒学」(日中文化交流叢書[3]『思想』、大修館書店、1995年10月)
注12: 拙稿「古代文学にみる天皇と孝」(『駒澤国文』第三十九号、2002年2月)
注13:

加地伸行『沈黙としての宗教―儒教』(ちくまライブラリー、筑摩書房、1994年)。同『儒教とは何か』(中公新書、1990年)。なお、加地伸行氏の論については、池澤優氏が、加地氏の宗教の定義「宗教とは死ならびに死後の説明者である」の妥当性は別としながら、「「孝」の問題に関する限り、その議論は概ね認められると考えるべきであろ

う。特に、「孝」の淵源が祖先祭祀に内在する世界観にあり、死の説明という救済論的意義をもっていたという指摘、及び「孝思想」の流れを「愛」的要素と「敬」的要素の二項対立からみる視点は貴重である。」と述べている。〈池澤優『「孝」思想の宗教学的研究古代中国における祖先崇拝の思想史的研究』、東京大学出版会、2002年、319頁〉。また、中村雄二郎氏は、『日本人における罪と罰』〈新潮社、1998年〉において、加地伸行氏の論は、「通常われわれが日本固有のものだとか仏教的だと思っていることがいかに儒教と深い関わりも持っていたか」を明らかにしたものである、と高く評価している。
注14: 儒教の礼教性は、日本の思想に影響を及ぼさなかったと考えるのが通説であるが、最澄が比叡山に入山する際し、その決意を述べた「願文」には、自らを卑下して、「上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を闕く」者であると云っている。これは、若き最澄が、遵守すべき仏法・王法と並立する社会生活の規範は、孝・礼であると理解していたことを示している。また、源為憲撰述の『世俗諺文』には、仏典・漢籍を出典とする生活思想に関わる章句、220章句が集められ、その出典を示して解説されている。『論語』『礼記』『孝経』などの儒教経典を出典とする章句も多く、ちなみに、『論語』を出典とする章句は30章句に及んでいる。これは、儒教が貴族の生活規範として大きな位置を占めていたことを物語っている。
注15: 『日本書紀』皇極天皇元年条に、蘇我氏が、祖廟において、天子のみに許されている儒教の祖先祭祀儀礼である八舞を行
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