影響を及ぼさなかったとする見解が通説化していたのは、儒教の道徳倫理の側面にのみ焦点をあてて儒教の日本思想への影響を論じてきたがゆえのことであった。加地伸行氏が述べる儒教の宗教性に基づきながら、『日本書紀』『続日本紀』の記事を確認すると、古代日本においては、儒教は、宗教性と礼教性との両面において理解されていたことが明らかとなったのである。
 祖先祭祀という、儒教のもつ宗教性は、古代日本の祖先祭祀観に受け容れられ、古代日本人の信仰生活に浸透していったのである。奈良時代以降、祖先祭祀儀礼は仏教者によって執り行われるようになるが、儒教の孝思想は、仏教儀礼の中にも違和感なく取り入れられ、追善供養法会の思想的基盤として受容されていった。このような背景には、八世紀日本の知識階層の間において、古代中国の六朝思想の影響を受けて、儒教仏教一体思想が広まっていたことが関わっていた。また、聖武天皇一周忌追善法要に際して、全国の寺院で行われた『梵網経』講説の法会も、八世紀日本における儒教・仏教一体思想の定着に大きく関与した。『梵網経』には、孝と戒との一致が説かれており、仏教の戒律が儒教倫理の根本である孝と同義であるという理解を浸透させていくことになった。儒教・仏教を一体と捉える理解は、仏教法会の場のみならず、政治や学問の場などを通じて、生活思想として、古代日本社会に浸透していったと考えられるのである。
 祖先祭祀は、持統天皇以降、仏教儀礼としての追善供養法会が定着し、代々の天皇による亡親追善供養法会が盛んに行われるようになり、九世紀初頭には、親王以下地下人階層に及ぶまで、 広く亡親追善供養法会が行われるようになっていた。その法会における唱導の実態を現在に伝えて

いるのが、『東大寺諷誦文稿』である。そこに収められている表白によると、追善供養法会において仏教者は、儒教・仏教一体思想に拠り、親の恩を強調し、親への報恩の例として、経典・漢籍から孝子説話を引用して、亡親追善供養法会を営む施主の行為を孝であると讚えていた。亡親追善供養法会の表白において、施主を孝子として讚歎することは、平安時代以降の表白にもみることができ、平安初期には、すでに定型化していたものと思われる。
 中世唱導資料における追善供養表白・願文が、儒教の孝思想に彩られていることは、古代から中世における儒教の孝思想受容を受けてのことであった。儒教の孝思想は、仏教の追善供養法会の基盤を為す思想として、仏教と融合して深く中世日本人の信仰や生活思想の中に浸透していたのである。

 注
注1: 小峯和明・山崎誠「安居院唱導資料纂輯(一)〜(八)」(『調査研究報告』〈国文学研究資料館文献資料部〉十二〜十九号、1991年3月〜1998年6月。なお、「安居院唱導資料纂輯(六)」は山崎誠氏と阿部泰郎氏による翻刻紹介。阿部泰郎「仁和寺蔵『釋門秘鑰』翻刻と解題」(『調査研究報告』〈国文学研究資料館文献資料部〉、1996年3月)
注2: 『中世唱導資料集』『法華経古注釈集』『説経才学抄』『中世仏伝集』『漢文学資料集』
注3: 村山修一「公刊「普通唱集」」(上)(下)(『女子大文学』〈大阪女子大学文学会〉、1960年2月・1961年1月。

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